青パパの無限増殖ver.187 -3ページ目

旅の心得?

「旅行者は旅行者らしく」とSちゃんが敬愛するMさんは説いたようで。当人は無自覚のまま、トートロジー(同語反復)は意味の希薄さを増幅させるだけで、記号性すら有しない、などと遅れてきたニューアカみたいな言い訳に終始する。
その言葉を鏡の前で復誦していただきたい。「豊饒の海」の生まれ変わりのしるしである黒子を探す代わりに。
とかく帰国してから後の旅行は、放蕩を尽くした過去を振り返り、贖う内容に近く。新しい国への改まった認識の発見、現地の方との触れ合いから生まれる温かさ、異なる文化への純粋な驚き、とは対極にある。緩やかな変貌を遂げる国々で依然として曖昧な態度でその国の言葉を話し、通過する傍観者。
茶化して「罰ゲーム」と称するのは、街角の片隅から自分の影に覗かれている罰の悪さが抜け切らない訳で。まるで村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」、旅先のホテルで上巻だけ読み直したのはいつのこと…

村上 春樹
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

揺るぎない明晰さと

バンコクを再訪しているSちゃんの旅のお供は三島由紀夫「春の雪」。世紀を越えて読み継がれる理由は、甘ったるく表層的な懐古主義ではなく、喪われつつある哲学と美意識に裏打ちされた精神の希求にあるはず。形骸化した内面を補填すべく三島由紀夫を触媒にする私たちは、自らを触媒にして内面と世界へ対峙した氏の強靭な精神と肉体をもちえない。幸か不幸か完璧を欲しない故に。
先の朝日新聞の書評で高橋源一郎がノーベル賞作家大江健三郎を「大顰蹙」と称していて。中学・高校までは氏の作品を愛読していたので、「大顰蹙」の説明は頷ける、悲しいかな。新作を遅れて読むたび、自家撞着の檻から抜け出ない閉塞を嗅ぎ、軽い失望に襲われる。生者と死者の立場が逆転し、あたかも「死父」が顕現したかのような。
名誉と殊勲だけでは読み継がれない悲劇が無言のうちに語られて。

三島 由紀夫, 古林 尚
三島由紀夫最後の言葉

所謂「活性化」の休日

夜中過ぎに飲み友達のI君がお店へ連れて来てくれたTさんよりメールが。大学の寮の後輩から招待されてmixiに登録していたのでした。深く考えずに青パパで。
マンネリ化と著しいパワーダウンが否めない昨今、飲み友達の関係活性化を計る意味合いを含め、昼前に集合、温泉ならぬスーパー銭湯へ。
コンパクトな軽自動車に大の男四人が身を寄せ合うように乗り込み、オプションなしの「

グローバル・A・エンタテインメント
超兄貴 ~「聖なるプロテイン伝説」~

」状態。関内から港の見える丘公園前を通過。暖かい陽射しに誘われて楽しげに闊歩する、家族連れ、カップルの姿が視界から途切れることがない。
同じ面子で中華街を訪れたのは三月以来。様々な理由で頻繁に足を運ぶI君とは違って、人の波に溺れかけ、記憶の照合を試みている内、たちまち背中が遠くなる。
ランチタイム過ぎの店でオーダーバイキング。生ビールで乾杯、帰りの運転はTさんにお願いして三人で紹興酒のボトル。サウナで高橋尚子の劇走を見、流した汗は瞬く間に水泡?に帰す。
二輪をこよなく愛する御三方に追随してバイクショップを回り、密度の濃い休日が終了。
PCを覗くとmixiからまたメールが。招待して音沙汰のなかった三談仲間のN君より。バーチャルにもリアルにも繋がっている人の縁。


見る前に跳べ

日垣 隆
エースを出せ!―脱「言論の不自由」宣言

木枯らしに身体を縮み上がらせ、朝の冷え込みに閉口し、怠惰に毛布の海に溺れていたくなる。
惰性という悪魔に魅入られると、ささやかな情熱すら疎ましく感じられ、恣意的に停滞の途を歩んでしまう。絶望の崖までは至れない果てしない回り道、。
読書の快楽が苦痛になっても活字中毒者は本を手放せない。松野大介「芸人失格」「TVドラッグ」「路上ども」、高橋源一郎「ミヤザワケンジ・グレイテストヒッツ」、重松清「疾走」、東野圭吾「幻夜」はじめ、日に数冊は読み漁る。
所謂「落ち込み本」には手が伸びず、やはり「少し疲れ」ただけなのだ。納得させるように田中康夫を借りこむ。永遠の「なんとなく」「皮膚感覚」を検証しようと。日垣隆「売文生活」を読んだら大学の大先輩だとわかる。「買ってはいけない」の舌鋒という思い込みしかなく。二人とも法学部。二人の気概は見習う可き、枝葉末節は眼をつむって。隙間だらけのブログを埋める。


真の侵略者は?

ワーナー・ホーム・ビデオ
マーズ・アタック!

「新作のDVD観る?」
閉店間際、夜食を摂りに訪れたオーナーの旦那さんに送ってもらう車中。新しもの好きだから…
「宇宙戦争?」
前夜、ベトナムで観た「トップガン」の話をしたばかり。ヴァル・キルマーの若さと初々しさ(トム・クルーズも)に驚いたなんて。
スピルバーグとトム・クルーズ、二人の名前ばかりが先行している印象を拭えないまま、画面を見つめる。長い間地下に潜んでいた「宇宙」からの侵略者は地球人の生活を容赦なく破壊し、その命を奪う。一方的な攻撃に地球人はなすすべもなく、混乱し、逃げ惑うのみ。「戦争」ではなく「侵略」では?とにかく家族だけは守ろうとするトム・クルーズの中に昨今、世界で繰り返される紛争や内乱への自戒を込めたメタファーが見出せたらいいのに。
致命的な編集のミスで構成された映画を観てしまったような気まずさ。一抹のユーモアを交える余裕すらない映画に5年前のバンコクで「マーズ・アタック!」を繰り返し、観た記憶が甦り。弛緩する日常の緩慢さを笑い飛ばせる逞しさこそが「娯楽」の要素では?
「シザー・ハンズ」のキャスティングでティム・バートンは最初、トム・クルーズを頭に描いたなんて、ややシニカル?


掌のスクリーン

澄み切った紺碧の空、砂塵の舞う丘、しなやかな意思を放つ横顔、友人の掌にあるマッチが気になってしかたない。観る前から次の予定、ヴィム・ヴェンダースが生きていてよかったなんて言ってるようでは。帰国した頃、居候していた先のO君の言葉を鵜呑みにしてはや四年…朝日新聞のインタビューで存命を確認。
誕生日が同じ奇縁からのめり込むようにビデオやLDを集めた大学時代の情熱の一欠けらも現在の自分に投げつけたい。
一席だけ完全に柱の陰で銀幕が隠れてしまうミニシアターで見た「リスボンストーリー」以来の映画館でヴェンダース。流れは「エンド・オブ・バイオレンス」を汲んでいるようですが。前知識で頭でっかちになって視野を狭めてはいけないと。ただ、無条件に受容したり、闇雲に批判する無責任さは断固として拒否。客観性を堅持しつつ、分析、批評をする。高みから見下ろさず、窪みから見上げず。地平より天使の眼差し。

ラインホルト ラオ, Reinhold Rauh, 瀬川 裕司, 新野 守広
ヴィム・ヴェンダース

雨降りの夕方、地下の銀幕を。

メリッサ ノックス, Melissa Knox, 玉井 アキラ
オスカー・ワイルド―長くて、美しい自殺

ずっと前から約束していた「理想の女」を見にシネスイッチへ。友人お勧めの「ロスト・イン・トランスレーション」に出演しているスカーレット・ヨハンソンの話をしつつ、最近見た映画をちょこちょこと。
スカーレット・ヨハンソンのセックス・アピールの強さについて教示を受けたものの。銀幕の闇に紛れると、金の扇、胸元が広く開いたドレス、古ぼけたロケット…映画の鍵を握る南イタリアの瀟洒な別荘の調度に目を奪われる。小道具こそが陰の主役、身につけた女優が放つ華やかさ、艶やかさにもひけを取らない。画面の片隅で物語の筋をほのかに照らす。
古きよき時代の南イタリアの避暑地の清涼さ、穏やかな雰囲気、緩やかな時間の流れに引き込まれていく。原作を読んでいる友人が隣で泣いているのにも気付かないまま。
エンドロールの余韻から抜け出て、映画館の外へ踏み出すと、降り続く雨がアスファルトを打つ。傘もささずに交差点を駆け抜け、秋雨の冷たさに身を震わせる。癒すはナンプラーが程よく効いたタイ料理の香り。亜細亜へ還る宴。


柏尾川の鯉・鳩にポップコーンを

暖かな陽射しが降り注ぐ土曜日の昼下がり。土曜出勤の帰り道に立ち寄って下さったNさんと柏尾川散策。
途中、MEBAEさんの前を通り、挨拶。静謐に充ちた空気を擦り抜け、図書館前のコンビニへ。夕方までのつかの間のひと時、温まったポットから、湯気が微かにたつくらいそっと言葉を交わす。川辺の鯉、鳩にあげる(投げる?)キャラメル味のポップコーンを一袋頂く。
対岸にLOPOを見つつ、視線を下ろすと数年前、花見をした川原に親子連れ、カップルがちらほら。橋を渡り、鳩が集まるコンクリートの空間へ足を踏み入れる。
おもむろに袋を破り、人の気配に驚く仕種を微塵も見せない鳩をつま先に感じ、波立たない川を漂う鯉の群れ、と交互にひとつかみずつ、ポップコーンを。
甘い香に包まれて間もなく、友人から電話。
「何だか元気ないけど、大丈夫なの?」
水面を揺らす大振りの鯉の口元、ポップコーンのかけらを啄む鳩のくちばし。見えない友人の唇を頭に思い浮かべながら、軽く深呼吸。声が届くまでもう少し。

井伏 鱒二
井伏鱒二全集〈第18巻〉還暦の鯉・駅前旅館

文学に魅入られる夜

Chris Van Allsburg, 村上 春樹, クリス・ヴァン オールズバーグ
魔術師アブドゥル・ガサツィの庭園

が好きな同い年のFさんがお店に来られると、話題は自然に文学へ。新訳の話から村上春樹の翻訳した小説に。フィッツジェラルド、レイモンド・カーヴァー、サリンジャー…
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を「ライ麦」で読んだのは中学生。大学生で一度読み直したはず。白水社のイラストはピカソ!みんな変な顔がついてるなんて言いますけど。初期のUブックスを含めて部屋にかなりの冊数があり。ポール・オースター、ティム・オブライエンに触れた入口。
Fさんいわく、「村上春樹の翻訳ものって正直どうなんですか?」
レイモンド・カーヴァーの名前を初めて知ったのは高校生で「文学界」「群像」「海燕」を購読していた時期。今や新聞で見出しだけを眺める文芸誌。村上春樹・翻訳の見出しに惹かれて買ったのでしょう。
その後中公文庫、講談社の英語文庫などを購入して、ロバート・アルトマン「ショート・カッツ」で打ち止め?サイゴン時代も蔵書としてあったにしろ。
手元にあった「ささやかだけれど、役に立つこと」をFさんに。最良なのかはわかりませんが、新たな扉を開く鍵になれば。


文学青年の詫び状

「春の雪」が公開されたのを追い掛けるかのようにSちゃんからメール。「豊饒の海」四部作、「春の雪」と「暁の寺」の感想を求められる。
輪廻転生の物語であること、美しく格調高い文体について説明をする。第四部の「天人五衰」はテンションも文体の精度も落ちる、なんて不遜な物言いをしてしまう。それは四部通して語りベの役を演じる本多が老い、死に近づいていくと同時に物語が終焉へ向かって行く。構造上、必然的に避けられない訳ですから。「天人五衰」を書き上げて自決した「事実」と結び付けるのは安易に過ぎ。
「豊饒の海」は読み返すたびに不思議な感覚。主人公は生まれ変わり、若くなるのに本多だけは淡々と歳を重ねていく。記憶を胸の奥底に抱えつつ。
唯一読み直しをしていない「暁の寺」を図書館で借りて来たのは、懺悔の意を込めて。ワット・アルンには昨年やっと足を踏み入れており。「すべての芸術は夕焼」と言う啓示は得られませんでしたが。
「豊饒の海」は「生」と「死」を巡る壮大な物語で何度も読み直して始めてその深淵の縁に立つことが出来る。三島の優雅な筆致、アルファベットのサインが入った「暁の寺」のページをめくり。

三島 由紀夫
天人五衰