青パパの無限増殖ver.187 -5ページ目

パークハイアット・ドット…

ジェフリー ロビンソン, Jeffrey Robinson, 春日 倫子
ザ・ホテル―扉の向こうに隠された世界

サイゴンに在住している間はずっと、ハイアット・グループの看板が掛かっていた空き地には、瀟洒な白い建物が聳えている。眼と鼻の先のカラベルに泊まっている都合、タクシーの行き帰りに自然と視界に入って来て。風景の変貌は、破壊と建設の繰り返しにより操作されます。ここ何回かサイゴン訪問では新たにオープンしたホテルを目の当たりにして、過ぎ去った時間、遠ざかった距離を実感する。開発される余地があるなら、当然、発展する可能性、投資の有効性に基づいている訳で。
「キンテー・サイゴン(サイゴン経済)」をひもとかないと。
揚げ足を取るかのように、サイゴンのパークハイアットのドメインでドットが打たれている位置がおかしい…玄関についている文字が控え目過ぎる…タクシーの運転手には「パークヒアット!」と言わないと通じない…云々と難癖つけてはいけません。黒を基調とした、トラディショナルな中に伸びやかで優雅なモダンさを備えたアオザイは、これまでの格式に囚われない新たなスタイルの確立を予感させます。シックで落ち着いたロビー、高い天井に合わせた広い窓から注ぎ込む光が象徴するその先は。凜としたコンセプトと環境の融合。


昼さがりにビアサイゴンを

阿刀田 高
奇妙な昼さがり
連休の最終日、雨に祟られて暇だろう、とぼんやり窓の外を眺める。正午近くになってNさんからメール。Aちゃん、ベトナムで知り合った婚約者のMさん、Aちゃんの同級生が訪れるとのこと。前日、Aちゃんの御両親との顔合わせが無事済んだようで、初めから和んだ雰囲気。
遅れてI君、Nさんが来店、前日も前々日も飲んだという三人に負けない?ようサイゴンビールがテーブルに居並ぶ。
Mさんが以前ニャ・チャンで働いていた店は、アルキストが訪れていたりして、タイムラグはあるものの、世界は縮小しつつあるのか。
料理がひと通り出揃ったところで飲みに参加。雨は静かに降り注ぎ、お客さんが階段を昇ってくる予兆もない。たまにカウンターの外に出て話の輪に加わると、普段は見えない視線が浮き彫りになるのがわかる。
Mさんの人となりをAちゃんから聞いた話と照らし合わせるような展開。サイゴン脱出後の旅行でのエピソードやつい最近の出来事まで。昼から飲んでいる割に雨の憂鬱に圧されテンションが上がらない私は、いつもの如く?聞き役に徹する。
昼休みに入っても終わる気配が見えない宴、酒好きが集まるとつまみなんて二の次、途切れない会話がその証。

ベッドの海、シーツの波。

大貫 妙子
ベッドアンドブレックファスト
今までの旅行で狭い部屋に泊まることはあっても狭いベッドに寝たことは記憶になく。
カオサンで泊まったやたら天井が高いのにベッドの幅しかない部屋は衝撃。当然、窓などなく、ドミトリーに於けるプライベートの排除など可愛いもの。カプセルホテルも快適に思える壁の圧迫感。天井だけは三メートル以上あったような。部屋と言うより穴蔵ないしは天井裏?
ベトナムの沿岸の街、ラック・ヤーの部屋も容積的には近く、ベッドとミニテーブルの幅、テレビがある分、孤独感は軽い。メコンデルタでは安さばかり追求し、清潔、衛生と
無縁なミニホテルばかり泊まり歩いていました。エアコンはなし。日記を書いては泥のように眠る旅の日々。
ならばエキストラベッドで眠るつかの間の窮屈さは我慢出来るはず。エアコン・テレビ・冷蔵庫・バスタブがある部屋なんて旅人の時分は不相応にしか思えませんでしたし。「部屋でくつろぐ」余裕がなかったから?
ムイネーでのエキストラベッドは身長170に満たない私でも足が出てしまう。子供用なら代わりにソファでもあればいいのに。悲しいかな、胎児のように縮こまり眠る習慣が身につき、寝相も悪くない。多少うなされるにしろ。

いつもの場所

谷 郁雄, ホンマ タカシ
自分にふさわしい場所
何年経っても戻るべき場所はあるのだと、認識させられる旅。デ・タムに泊まるのはかなり抵抗を感じましたが。
いつものカフェでコーヒーを飲みながら、オープンしたばかりでクリームの色彩が鮮やかなそのホテルの前にあいのりワゴンが駐車しているのを幾度となく見掛けたのは、SちゃんMちゃんと出会った前後のはず。一時帰国した際、ホーチミンの映像も見ましたし。
もとよりなじみのカフェは2階続きのビリヤードバーに変貌し、面影らしきものすら見出だせない。周囲は看板や内装のデザインが洗練されているにしろ、記憶は辿れるのに。
感傷的な気分で拒絶していた割に、友人諸氏と待ち合わせ行動するには便利なロケーション。エレベーターが故障して狭い階段を昇り降りするのもベトナムらしい、と寛容にもなれる。
歩いてすぐのSカフェで女性オーナーとその長男に挨拶して、昔みたいに入り口近くの席で待ち合わせ。2階は改装され、天井が高くなり、テラスからデ・タムが見下ろせる。頼りなげに日常を過ごしていた自分の影を探すように、熱っぽい通りを彷徨う視線。
多くの言葉を交わさなくても折りにふれて戻るべき場所がある。周りを包む優しい空気が訴えてきて。

満足がもたらす意地の悪い不満

ここまでのブログを読み返すと、旅行前に呆れるくらい「望郷」の念を書き連ねていたとは思えない、贅沢な「不満」を訴える自分がいる。人間はなんと脆弱で、眼前の欲望に衝き動かされる憐れな生き物なんでしょう。
ダ・ラットで仙人のような生活をしているNさんには「もう一度ベトナムに戻って来ないか?」と呪文を囁かれましたが。日本からのゴルフ客程度しか日本人を見かけない避暑地では、霞では充たせない様々な飢えが存在する。代表的な活字の飢えが共感出来るなら何故、司馬遼太郎の一冊も渡さなかったのか?
サイゴン時代、暇を持て余していた私にとことん付き合ってくれたNさんを前に「ここに戻って昔みたいに遊ぶ以外に出来ることはないのか?連絡を密に、忙しさを理由に怠ってはいけません。
望んでいたのは「昔みたい」に友人諸氏と会って話をし、飲む。自分も友人諸氏も「昔みたい」に振る舞っているけれども「違う」事実を突き付けられて思わず目を逸らす。
もはやここの「住人」ではないし、まして「旅人」とは言い難い。開き直り出来る蛮勇さが必要?
「昔みたい」に過ごせて満足してる自分を押し隠して「仏頂面」してるあまのじゃくを女性陣が窘める。
もう少し素直に、と。
ジャネル バーロウ, ポール ホールデン, Janelle Barlow, Paul Holden, 深谷 健一郎, 井口 不二男
苦情という名の贈り物 イラスト版―不満の声から宝物を見つける方法

路上から

サイゴンに居ても居なくても、常時飛び交うそこの情報の真偽を巡ってあらゆる糸を手繰る。たいていみんな同じ糸に絡み取られてい、結果として「確認」のような。
今年の正月、遠路はるばる兵庫から車で来てくれた、サイゴン時代の旧い友人に大まかな情報を伝えると。しばらく経って詳細を求めるメール。私の情報収拾は広く浅く、「詳細」は二の次。
遠く離れてもお世話になった方々の近況は気になる訳で。さしたる情報を持たない私は「小出し」に伝えつつ、「詳細」について調査を始めるしかない。
不思議とSカフェやファン・グー・ラオで飲んだ友人諸氏とは帰国後も交流が。一回ごとにスパンは長くなるものの過去の海原を浮かび上がらせる灯の如く続く。
廃墟を象徴する鉄柵を前に氷で薄められたビールを傾け、語り明かした無数の晩。
ある昼間、友人諸氏とタクシーで三区へ向かう途中、取り去られた鉄柵の跡に造られた無機質な公園を左手に見遣る。昔と同じ場所にいるはずなのにひどく「遠く」感じられる。
整然と敷き詰められたタイルからゆらゆら立ち上る蜃気楼。友人の呼ぶ声で我に返り、車内のエアコンで引いていく汗と共に胸が締め付けられる。路上は遠く…
松野 大介
路上ども

半球を繋ぐ指先には夢の滴

サイゴン初日の晩、夢にまで現れたS君の話は現地でもすんなり受け入れられ。携帯電話一本で、ささやかな願望は叶えられる。その前日に飲んだ友人にする話としてはロマンチックが欠落しています。改めて「義兄弟」の契りを交わしたような気恥ずかしさを含みつつ。そのほのかな羞恥は互いに不義理にしていた気まずさから来たのかも。
慢性的に眠りが浅く朝方にはスライドのような刹那的な夢を見る私は「夢の力」をあまり信じていません。そのときの自分の精神状態を冷静に分析して、自分が「寂しい」とか「切ない」とか「疲れてる」状態にあることを把握する。夢の話をしたのは場の座興的な意味合い?
帰ってからサイゴンの夢を見ることはなく、「望郷」の念はしばらく記憶の箪笥の引き出しにしまわれているようで。相変わらず「日常」の夢の分析を自己憐みんを拒んで続ける日々。
一抹の淋しさを示すことなく、縮小しつつある世界に呼応するように盲目的な距離を信じてみる。それは確信めいたもので繰り返される日常に立ち止まるひと時、同じ空を見上げている異邦の友人を想う。流れる雲に面影を探せば、心に圧しかかる重みもしばし軽くなる。

絲山 秋子
イッツ・オンリー・トーク

さきゅうでいろいろかんがへる

先月から何故か橋本治漬けになっているので、何故、今、橋本治か?をムイネーの紅い砂丘で考えるのもひとつのテーマだったのですが。「源氏供養」を読み終え、カルヴィーノ「冬の夜一人の旅人が」を百ページ読み直して止まってしまう。

砂丘には雨が上がるのを待ち、夕暮れ近くに到着になるため、途中の車内で間に合うかどうかばかり考えていましたし。わかったのはリゾートには純粋な古典は不向きで、古典の解説はさらに不向きである事実。

柴田錬三郎賞に「蝶のゆくえ」が決まり、先月の過剰なのめり込みもその予兆だったのかも。敬愛する作家が評価されるのは嬉しい限りです。多くの読者に歓迎されますように。

ベトナムで考えられなかった償いに部屋の段ボールに押し込まれた「源氏」を読む。氏の衰えない執筆意欲の一端でもうかがい知ることが出来たら。見習うべきことは多く、何故何故なんて考える時間も惜しく。宿題は砂丘に置き去りのまま。

柴田 錬三郎
英雄三国志〈1〉義軍立つ

「ずっと」と「永遠」の間

「人間、本当に嫌な場所にずっといたりはしない。」
                    矢作俊彦「ららら科學の子」
「三年」が「ずっと」と比較して長いかどうか解釈は異なるでしょう。サイゴンに着いて最初に抱いた疑問は「何故ここに三年もいたのか?」。私にとって「三年」は「ずっと」永遠に近い時間に感じられたにしろ。日本に帰国してからの時間は既にその「ずっと」を越えている。
タン・ソン・ニャット空港からオムニ・サイゴンの前を通り、三区を過ぎ、ナムキ・コイ・ギアを直進…この辺りに来ると隣のMちゃんにサイゴン大教会、ダイアモンドプラザの場所を説明している自分がいる。疑問が孕む陰と背反する快活さを伴って。
「ららら科學の子」の主人公は全共闘運動が激しさを増した頃、殺人未遂事件を起こし、中国へ渡ったものの、文革の煽りを農村で暮らす。30年の時を経て、蛇頭に身を委ね再び、日本の地を踏む…
2年ぶりのサイゴンは変貌を遂げたようには見受けられず、つかず離れずの友人諸氏も温かく迎えてくれる。不遜な疑問を抱いたことさえ気恥ずかしく感じられ。「ずっと」は「永遠」との時間的容積の比較ではなく、「反復」される惰性への恐れ?
幼なじみとも歳の離れた妹とも電話でしか言葉を交わせない。その見えない距離の切なさに惹かれて読み直す自分は驕っている。自戒…
矢作 俊彦
THE WRONG GOODBYE ロング・グッドバイ

サイゴン忘れ形見

帰国してリハビリの一週間が過ぎ。友人と車で小田原へ行く約束を。寝ぼけ眼でシャワーを浴び、自販機の前でジーパンポケットを探ると、少額の硬貨がぼろぼろ。500、1000、2000、5000と揃い踏み。
初乗り12000~15000のタクシーで使えばよかったのに…支払いは何故か、50000、100000紙幣ばかり。ムイネーではホテルの支払いに500000を使いましたが。大遅刻した空港でお姉さんがベトナム航空の職員に手渡していたような。
0の多さに圧倒されず、価値がその数に比例しない現実に順応していく。数年前と紙幣の外観は異なるものの、物価に関しては急激な変動が見られない訳ですから。
紙幣と硬貨が同時に流通していてもさしたる違和感はなかったのは不思議。在住の友人諸氏は硬貨が溜まって困る、とぼやいていましたが。
五百円硬貨が登場した当時を今は亡き祖母より、小遣いとして貰い、赤いバイクの貯金箱に入れていた純粋さが愛おしい。偽造硬貨に注意する必要にも迫られず。
少額硬貨だけなら偽造の危険性は少なく。自販機も見当たらなければ尚更。高額紙幣のプラスチックの手触りはタイを思わせ。去年と同様、五千円程度の外貨がまた手元に…両替は計画的に。
伊坂 幸太郎
アヒルと鴨のコインロッカー